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私の書く論:
個人プレーとチームプレーで磨かれる(渡辺信太郎)

ただの「打ち合わせ」も、大事なプロセス。

物を書く行為は、基本的には個人プレーです。いわゆる「文豪」の執筆風景をイメージしてみてください。灰皿には山盛りの吸い殻。辺りには書き損じの原稿用紙の紙屑が散乱。自分の内面と向き合い、懊悩しながら、命を削るように、一文字、一文字を刻み付ける……ここまでいくとちょっとアナクロですが、まあでも「みんなで楽しく」という感じでないのは確かでしょう。

弊社でも、書くときは孤独にキーボードを打つしかありません。しかし、書く前段階では、お客様や取材対象者の方から直接なんらかのお話を伺うプロセスがあることがほとんどです。それは、媒体や企画の種類を問いません。パンフレットやウェブサイトの記事、コーポレートステイトメントの類であっても同じです。

お話を伺うといっても、その形式はいくつかあります。特定の記事にするための「インタビュー」は、最も分かりやすい例でしょう。それ以外にも、制作物の柱となる理念やコンセプトを伺う「ヒアリング」があります。そこでの内容はキャッチコピーやボディコピーに直結するので、本質的には「インタビュー」とそれほど変わりません。「ヒアリング」ともいえないような、ただの「打ち合わせ」であったとしても、それは執筆に向けた大事なプロセスだと捉えています。

横道に逸れるのもインタビューの醍醐味。

インタビューに際しては、相手の方に気持ちよく話していただきたい、といつも考えています。その方の本音、その方にしか語れないことをなるだけ引き出したい。だから、準備には万全を期します。最終のプロダクトの形を具体的にイメージし、そこからの逆算で、伺うべき内容を整理できれば理想的です。時間が限られていることがほとんどですから、闇雲に伺うわけにはいきませんし、伺うべきことが抜け落ちないように注意します。

ただ、少し相反する話になってしまいますが、インタビューでは時間の許す限り、なるだけたくさん質問し、なるだけ多くの回答・反応を得ようと努めます。というのも、発言の総量が多いほど、執筆のための選択肢が増えて、仕上がりの質を高めることにもつながるからです。最初から「使える言葉」だけを引き出せるに越したことはないのかもしれません。しかし、そういう「コスパ志向」はなんとなく経験的にインタビューの現場にはそぐわない気がするのです。話が横道に逸れたり脱線したりして、無駄もたくさんあったからこそ、キラリと光る言葉が飛び出してくれたと感じることも、ままあります。

インタビュアーに求められるのは、相手のどんな発言もキャッチして、いろんな角度から相手に投げ返すこと。そのためには、ある種の反射神経が必要ですし、自身にたくさんの引き出しがあるとベターです。「準備」というのは、ただ質問を考えるだけではなく、日頃から情報感度を上げて、豊富な話題のタネを持っておく、ということも含まれると思います。

原稿は、複数人の目を経ることで完成する。

とはいえ、インタビュー自体はいい感じだったのに原稿がすんなりまとまらず難航したり、その逆もあったりするのが面白いところ。インタビューの神様は気まぐれです。

そして、原稿は、書き手の下でいったん完成したとしても、そこで終わりではありません。弊社では必ず複数人の目でクオリティをチェックしています。ときに、ああでもないこうでもないと議論します。その意味でも、書くことは、孤独なだけでは完結しないのです。

いったん書いた後、しばらく「寝かせておく」のも手です。私の場合、できれば少なくとも丸1日、寝かせておく時間がほしいと感じます。そうして、あらためて自分で読み直してみると、それまで見えてなかったさまざまな粗が発見できるのです。後日の自分は、別の自分。この方法を、私はひそかに「セルフ複数人チェック」と呼んでいます。

ライティングでは、孤独とコミュニケーションをバランスよく操ることが求められます。一般論として、この二つの要素はいわば対極であり、両立するのは簡単ではないかもしれません。しかし、生まれ持った才能や適性によらずとも、実地の経験とトレーニングを積めばなんとかなるものです。ライティングは芸術(アート)ではなく技術(エンジニアリング)。そう信じて、今後も精進を重ねていきます。

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