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フリッジ前夜vol.1
フリーの編集者時代(立古和智)

とうとう独立宣言をすることなく、今に至ってしまった。

おかげさまでフリッジは15周年を迎えます。この節目となるタイミングでフリッジの代表である立古和智の足どりを記録がてらまとめてみようと思います。

フリッジの設立は2008年3月6日。それより6年前の2002年2月1日に、僕はフリーの編集ライターになりました。フリーになったというと聞こえは立派ですが、実のところは勤め先だった出版社(株式会社ビーエヌエヌ)が倒産し、次の勤め先を探す間もなく、なし崩し的にフリーになってしまったような感じです。具体的にはいろんな知り合いが声をかけてくださり、彼らがいろんな仕事につないでくださり、という幸運に支えられて、業務委託の仕事でスケジュールが埋まっていったのです。

そのため今に至るまで独立宣言はしていません。当時の僕はまだ28歳。「30代半ばまでには独立できたらいいな」というおぼろげな夢はあったものの、いきなりやってきた倒産劇に巻き込まれての独り立ちとあって、まったく心の準備はできていませんでした。今ふり返ってみると技術も経験値もまるで足りておらず、見切り発車もいいところでした。

本音を明かすと、あのときはフリーでの仕事が続かなければ再就職すればいいかなと思っていました。独立した初年度は、2ヵ月ほどビッシリと埋まったスケジュールを走り抜けると、1ヵ月は真空状態、次の2ヵ月を全力疾走して、また1ヵ月の真空。この乱高下はなかなかにストレスフルで、次なる仕事が決まっていないと生きた心地がしません。これといった貯金もありませんでしたので、真空のまま窒息しないように、アパートにこもって銀行口座の残金ばかり眺めていたことをよく覚えています。

デザイン本ブームが追い風になって、仕事に困ることはなかった。

ハラハラの日々から、少しだけ安定に向かったのは2002年の秋頃だったと思います。月刊誌の連載コーナーを担当させてもらうようになったのです。月刊CGWORLDの「絵コンテ描こうぜ」が最初でした。それを皮切りに、月刊誌での連載仕事は2本、3本、4本、5本と立て続けに決まります。そうなると毎月の収入が約束されて安定する一方、「仕事がないのでフリーは卒業」と逃げ出すわけにもいかなくなっていくわけです(もちろん卒業したかったわけではありません)。

2002年から2007年頃までは、雑誌の連載が4〜5割、イレギュラーに依頼される雑誌の仕事が2〜3割、自分で企画を持ち込んで編集制作する書籍の仕事が2〜3割。仕事の9割は、デザイン、クリエイティブ関係でした。雑誌名でいうと、デザインの現場、デザインノート、デザインのひきだし、MdN、Web Creators、Web Designing、CGWORLD、DTPWORLD、一般誌だとSTUDIOVOICEやRelax、ごくまれにJazz Guitar Magazine。2000年代前半の「デザインブーム」も追い風になって、当時の僕はあまり仕事に困りませんでした。実にラッキーだったと思います。

「書くを超える」ことで、リピーターを増やしていこう。

ライターとして「書く」だけの仕事も山ほどしましたが、どちらかというとライティングを含む制作全般に関わる仕事(編集的な仕事)を相談されることのほうが多かったと思います。それは出版社で編集職についていたこととも無関係ではないでしょう。

自分としても「書くを超えた仕事を」を念頭に、「依頼主である編集者をいかに楽させるか」に集中していました。つながりができた出版社には、書籍や雑誌記事の企画を持ち込むことに積極的だったのはそのためです。編集者の最たるスキルのひとつがこれ。提案力です。出版社勤務の編集者の多くは、日々企画を求めています。僕が企画を持ち込めば、ひとつ仕事を減らせて楽できます。ほかだと頼まれたのがライティングであっても、率先して取材先へのアポ取りや原稿確認出しもしました。取材先候補の提案や、デザイナーへの制作ディレクションまでやることもあったほどです。編集者が楽できる「整った原稿」も心がけていました。

多くの編集者は多忙です。外部ライターが編集関係の仕事までやってくれるなら、もちろん頼みたい。大した専門性のない僕が生き延びるとしたら、率先して「書くを超える」が正解だと考えていたわけです。もとい編集者としてキャリアをスタートした僕は「書くだけ」ではない仕事を望んでいたのかもしれません。そのスタンスは、現在のフリッジにも受け継がれています。言葉まわり、コンテンツを大切にした仕事に携わっていても、「書くの周辺」にまで足を突っ込むことは珍しくありません。これは僕のバックグラウンドとも関係しているように思います。

クリエイターネットワークはぼくの財産。

後になって気がついたことですが、デザイン、クリエイティブ関係の出版物に携わっていたことも、僕のキャリアに大きなプラスになりました。取材してきた相手はグラフィックデザイナーだけではなく、Webデザイナーも、映像作家も、イラストレーターも、広告クリエイターもいて、いろんな分野のものづくりの様子を浅く広く学ぶことができたわけです。現在フリッジで、ジャンルの壁を超えてフットワーク良くものづくりに臨めるのは、このときの学びがあったおかげだと思っています。

その上、僕が取材で面していたのは一流の人たちばかり。仕事ができる人たちの考え方、姿勢、マインドに日常的に触れていると、目指すべき水準は高まります。少なくともマインドだけでも彼らに負けないようにと思うようになっていきました。さらに運がいいことに、知り合った当初は雲の上の存在にも思えたクリエイターたちとは食事をともする仲になることもあれば、日常的に仕事でやりとりする間柄にもなっていきました。

このネットワークは僕の財産です。「書くを超えた仕事」をするとなると、書く以外の部分を支えてくれる人脈が欠かせません。これがあったおかげで仕事の幅を広げてこられたのだと思っています。(フリッジ前夜vol.2に続く

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