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フリッジ前夜vol.2
気がついたら企業コミュニケーションの仕事をやるようになっていた(立古和智)

出版以外の仕事に入っていけたのは、少しばかり英語を使えたからだと思う。

独立から5〜6年が経つと、それなりに仕事も充実するもので、常に100パーセント稼働でした。この頃には、何か次なるチャレンジを求めていたのも事実です。特にデザイン関係の書籍『僕はこうしてデザイナーになった』『駆け出しデザイナー奮闘記』『フリーのデザイナーになる』を立て続けに手がけた直後は、少しやりきった感すらありました(今思うと、すごい勘違いですが)。次なるチャレンジが何であるかは自分でもわからずにいたのですが、ともにオフィスをシェアしていたイギリス人デザイナーNから外資系企業の広報誌の仕事に誘ってもらったことがひとつの転機になります。

今でこそフリッジの仕事の99パーセントは企業や学校関係ですが、出版物以外の仕事にどっぷり携わったのはこれが最初だったように記憶しています。クライアント名は明かせませんが、誰もが知る米銀です。そんな大層なプロジェクトに彼が誘ってくれたのは僕の編集力を高く買ってくれていたから、と胸を張りたいところですが単に彼の人脈のなかに日本語ネイティブの編集ライターで、英語でやりとりできる人がほかにいなかっただけでしょう。ちなみに当時の僕の英語力はTOEIC 800点にも満たないレベル。Google翻訳もなかった2000年代後半です。若さというものは恐ろしい。無鉄砲にもほどがあります。

出版関係の仕事を辞める、と宣言したつもりはないのだけど。

彼との仕事を通じて、着々と企業の制作物の経験を積むようになり、気がつくと「出版:企業=10:0」だったのが「出版:企業=5:5」になり、この比率が逆転するまでに3年とかかりませんでした。Nとは米銀以外にもたくさんの仕事をご一緒させてもらったものです。

彼は、僕の制作実績をあまり気にしていないようでした。多くのクライアントは発注先の実績を気にしますが、彼は一度起用して良ければ起用し続ける、イマイチなら辞めるというスタンス。いずれにしても、出版物の制作をメインとしていた僕は、いつしか外資系企業の制作物に携わるようになり、徐々に制作の軸足が出版物から企業の制作物に変化していったのです。大手カメラメーカーの記事コンテンツの仕事、大手介護会社の広報誌、アンチウイルスソフトメーカーのキャンペーン仕事を経験したのもこの頃で、単発ではなく毎月やってくる仕事が多かったことにも相当に助けられました。

仕事を通じて英語を学んだのもこの頃です。それだけでは飽き足らずTOEICの勉強にも少しばかり熱を上げました。今でも英語オンリーでストレスなく仕事ができるとはいいません。トンチンカンな受け答えをして周囲を、ずいぶん困惑させてきたような気もします。それでも僕としては英語でやりとりをすることが好き。外国人とやりとりをする中では文化の違いに戸惑うこともありますが、むしろ刺激を受けることのほうが圧倒的に多い。そう感じています。

フリッジが「やりますのストライクゾーンは広く」を重んじるのは、未経験の仕事にもオープンな姿勢でいることで活躍の幅を広げてきた僕の過去と関係しています。これは間違いありません。やったことのある仕事だけを繰り返していたら、新しい能力を獲得できないし、自分の仕事に飽きてしまいそう。変化してこその成長だと思います。なお、いろんな人から「立古は出版の仕事を辞めた」と言われますが、実のところそう宣言したことは一度もありません。

3回やれば慣れる、5回やれば平気に、10回やれば楽勝に

企業との仕事が増えてからというもの、編集者でもライターでもなく、周囲は僕をコピーライターと呼ぶことが増えていきました。今だから本音を明かしますが、この居心地の悪かったこと。いわゆるライターの仕事と、コピーライターの仕事は、似て非なるものです。ライターとして一人前でも、コピーライターとして一人前とは限らないし、逆も然りです。僕の場合はライターとしての経験はあったものの、コピーライターとしての経験は皆無でした。コピーの仕事を請けると寝る間を惜しんで頑張ったものです。自分なりに納得のものが書けず、先輩コピーライターに添削してもらった回数も数知れません。200案を携え、先輩のオフィスを訪ね、合格だったのは2案だけといったことも。とにかく「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」「やるしかない」のマインドでした。いくつかのコピー講座も受講しました。そんな日々を過ごすなかで「コピーライターさん」と呼ばれても平気になるまでにはずいぶん時間がかかったものです。

今でこそ、企業のビジョン・ミッション・バリューや、サービスのネーミングを手がけるようになりましたが、そんな日が訪れるとはあの頃には想像もつきませんでした。「コピーの仕事は諦めよう」と思ったこともあったほどですが、しつこく厚かましく続けてきて良かったと思います。初めての仕事に苦労はつきものですが「3回やれば慣れる、5回やれば平気に、10回やれば楽勝に」をモットーに、続けてきたから今があります。(フリッジ設立後vol.1に続く

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